――橘杏は、切原赤也という少年が大嫌いだ。


きっかけは関東大会準決勝で行われた不動峰中と立海大付属中の試合中だった。
公式試合における試合最短記録にこだわる切原のルールぎりぎりのラフプレーが、兄・橘桔平を負傷させ、挙句入院する事態へと追い込んだ。正義感が人一倍強い彼女にとって切原のその行為は当然許し難いもので、試合後には切原に掴みかからんばかりの剣幕で抗議したのは彼女の記憶にも新しかった。

互いに全国大会へ駒を進めたが故に杏が試合会場で彼を見かける回数は自然と増えた。
切原の試合中の〈悪魔のような赤い目〉はもちろん、普段の好戦的な釣り目も、にたにたと嗤う口元も杏は大嫌いだった。会場で彼を見つけた杏は思わず眦を上げる。目敏くもそれを見逃さない切原はわざとらしく「おーこわっ!」と嗤うのだ。

この時点で橘杏にとって切原赤也という少年は、兄を怪我させた憎き相手で、恨むべき敵だった――――。




――切原赤也は、橘杏という少女が大嫌いだ。


切原が杏をそう認識したのは、関東大会準決勝の不動峰中との試合後だった。
公式試合における試合最短記録を狙う切原はいつも通りルールぎりぎりのラフプレーで、圧倒的なスコア差で彼女の兄・橘桔平との試合を終えた。その後、掴みかからんばかりの勢いで大声を上げ、抗議しにきた杏の姿はまだ切原の記憶にも新しく、反吐が出そうだった。

選手である切原が応援する側である杏と顔を合わす機会はそうないが、互いに全国大会へと駒を進めた学校同士であることには変わりなく、試合会場にいればどこかしらですれ違うことになる。その度に眦を上げる杏に切原は「おーこわっ!」と大袈裟に嗤った。しかしその実、苛立たしくもあった。

切原赤也にとって、橘杏もその取り巻き達も、弱い癖に暑苦しいだけの正義を振り翳し、キャンキャンと喚く小うるさい奴であり、大嫌いだった――――。




――橘杏は切原赤也という少年が大嫌いだった。


杏は、切原の自分よりも弱い者を見下す好戦的な釣り目が、人を小馬鹿にしたように嘲笑う口元が、かつての兄を彷彿とさせるような彼のラフプレーが、全部全部大嫌いだった。――そう、大嫌い"だった"。

全国大会開催前に行われる日米親善試合に向けて、関東大会で死闘を繰り広げた面々が集まった選抜合宿。そこに手伝いとして参加した杏は、関東大会準決勝ぶりに切原と顔を合わせることとなった。短期間で人が変わるわけもなく、相変わらず試合最短記録にこだわり、人を小馬鹿にした切原の態度に杏は苦虫を噛み潰したよう気分でいっぱいだった。
昼間は互いの顔を見る時間も少ないが、夜ともなればそうもいかない。合宿中の夜、事件は起きた。
薄暗い宿舎の階段の踊り場で偶然にも鉢合わせた杏と切原。
人一倍正義感が強く、勝気な杏にとって準決勝が行われたあの日の謝罪がまだであることがどうしても許せなかった。彼女の思いは鋭い言葉となって切原に向かう。好戦的な彼もまた売り言葉に買い言葉で、彼らの言い合いはヒートアップしていった。カっとなった杏が振り上げた手を躱そうとした切原が階段から落ちたのは一瞬の出来事だった。杏は怖くなってその場から逃げ出した。

その翌日、切原の頬にできた傷は神尾と揉めたのが原因ではないかと噂があちこちで飛び交った。切原は「階段で転んだだけだ」の一点張りで、あらぬ疑いをかけられた神尾は犯人捜しに躍起になっていた。
杏は何故切原が自分を犯人だと突き出さないのか不思議で仕方なかった。切原が階段から落ちたのは事故だったが、そのきっかけを作ったのは間違いなく彼女自身だったのだから。普段通りの彼なら「その女にケンカを売られたんで」くらいの一言はあったっておかしくないと杏は思っていた。
チームメイトである神尾への罪悪感と切原の釈然としない態度にもやもやした気持ちを抱えていた彼女に意外な答えを教えてくれたのは越前と切原の試合だった。以前までのラフプレーのない試合に杏も取り巻き達も驚きを隠せなかった。
あの切原が変わった、と騒ぎ立てる合宿メンバーを遠くに見ていた杏の「庇われたわけじゃないのに何で……」というどこかやりきれない小さな呟きは誰に聞こえることもなく消えていった。

橘杏にとって切原赤也は恨むべき敵であり、大嫌いだったはずなのに――――どうしてこんなにも苦しいのだろう。




――切原赤也は橘杏という少女が大嫌いだった。


切原は、杏の暑苦しく鬱陶しいだけの正義を振り翳す口が、顔を合わせる度に睨みつけてくる特徴的な大きな猫目が、弱い癖に自身のプレースタイルにいちいち突っかかってくるその態度が、全部全部大嫌いだった。――そう、大嫌い"だった"。

日米親善試合の前に行われた関東ジュニア選抜合宿。
関東大会からそう日を空けずに行われたその合宿には切原の所属する立海大付属中テニス部も、杏が応援する不動峰中テニス部ももちろん参加している。手伝い要員として紹介された杏に切原は顰め面も舌打ちも隠さなかった。面倒な言いがかりをつけられるのは御免だった。
合宿中の昼間は別々に動いているので切原が杏の顔を見ることはほとんどなかった。しかし、合宿に参加している面々――青学の桃城や不動峰の神尾、果てはあの氷帝の跡部すらも杏を構っているのを見た切原は苦虫を噛み潰したような気分だった。寄ってたかって何故あの女を構うのかと腹の内で毒づく切原の脳裏に関東大会決勝で当たった不二の顔がちらちらと浮かんでは消え、彼は舌打ちを重ねた。
杏と自身のラフプレーのことで言い争いになった末に階段から落ちたことも、その犯人捜しに躍起になる神尾を見るのも、越前と試合したことで改心したのではと周りからとやかく言われることも全部、切原は苦々しく思っていた。その上、結果として杏が間接的な原因だったことが明かされずに済んだことにホッとしていることに切原自身が一番驚いていた。

切原赤也にとって橘杏はキャンキャンと小うるさい女であり、大嫌いだったはずなのに――――何だよこれ、と彼は吐き捨てた。
第一印象/変わる

'18/05