「この前の部活んときに丸井先輩と仁王先輩から聞いたんだけどよ、」

夏休みの誰もいない家で切原くんと二人宿題をしていると、不意に彼が何かを思い出したかのように言葉を発した。ノートの上を走らせていたペンを止めて、ちらりと目線を上げると机に頬杖を付いた切原くんと目が合った。
切原くんの話にはいくつかパターンがあるが、先輩である立海の人達のことが大半を占めている。幸村さんや真田さん、柳さん――いわゆる、立海三強の名前が出るときは真面目な話か愚痴のどっちかが多いけれど、逆に仁王さんや丸井さんの名前が挙がるときは要注意だ。
過去の経験から眉を顰める私に反して、彼は笑顔で「ハグするとストレス解消になるらしいぜ?」と続ける。――ああもう、本当にろくでもない。
溜息を一つ吐いて「バカなこと言ってないで早く宿題やっちゃうわよ」とあしらったものの、向こうも向こうでどうやらかなり乗り気のようで引き下がる様子はなかった。

「相変わらずつれねーの。ちょっとした息抜きだって。ほら、タチバナさん」

ん、と体をこっちに向けておいでと腕を差し出した切原くんに私は困惑を隠せなかった。いくら誰もいない家だとはいえ、いつ家族が戻ってくるかわからない状況。それに付き合い始めてから今までこんな甘ったるい展開なんてなかったんだもの、仕方ないじゃない。
目線をあちこちに泳がせて黙りこくる私に痺れを切らせたのか、切原くんが動いたと思った次の瞬間には私の視界は暗くなった。彼に抱きしめられたのだと理解して、おずおずと彼の背中に腕を回した。
どれくらいそうしていたのか。呼吸をする度に体を支配する柑橘系の匂いに落ち着かなくなってきて身を捩って少し距離を置く。雰囲気に流されてしまった自分を思い出して真っ赤になった両頬を押さえて俯きながら「……どうだった?」と彼に感想を聞いてみた。

「すっげームラムラした」

――ほら、やっぱりろくでもない!
片手で口元を覆いながらそう言う切原くんに私は「サイテー……」と返すほかなかった。
恋は、シトラスに香る

'19/08