それは偶然に偶然が重なって、たまたま見てしまっただけのこと。けれど、その一瞬が頭の中にこびりついて離れなかった――。

早起きが苦手な俺が、部活でもない、ただのオフの日の朝、いつもより早く目が覚めた。
あまり効き目のない目覚まし時計を確認すれば6時半を過ぎたところだった。普段ならもっと寝られるじゃねーか、と布団をかぶり直すのだが、その日は何故か目が冴えていて二度寝をする気にもなれなかった。
もぞりと生暖かい布団から足を抜き、ベッドから抜け出して寝起きで凝り固まった筋肉をほぐすように軽くストレッチをする。合宿中でさえも、こんな優雅な朝は過ごしたことがなかった――きっと同室だった奴らに言えば"天変地異"でも起きるのではないかと言われるに違いない。
前屈姿勢で息を吐き切って体を元に戻すと、昨日寝る前に充電器に繋げてそのままになっていたスマートフォンが鳴った。こんな朝早くから誰だよと苛立ちながら端末を確認すると、通知画面に滅多に使うことのないカレンダー機能が表示されていた。日付は今日、予定名は「デート」となっていて思わず「うへぇ……」と声が出た。
自慢じゃないが、この機械で俺が使うアプリなんて、ソシャゲと動画、チャットアプリと、せいぜい電話とメールくらいなもんだ。と、なれば、このふざけた予定を登録したのは俺でない誰か。何となく犯人の目星はついているが、詳細確認のために画面を長押しすれば「12時に渋谷駅東口!遅れないでよ!」と書かれていた。やはり彼女――橘杏――の仕業だった。遅刻常習犯である俺に向けた彼女なりの対策なのだろうが、相変わらずお節介焼きというか何というか、だ。だが、思ったほど嫌ではなかった自分にもっと驚いた。
彼女との待ち合わせまでまだ余裕はある。せっかく早起きしたんだ、ロードワークでも行ってくるか。そうと決まれば行動は早かった。
ロードワーク用のジャージに着替えて階下に下りれば、朝飯の用意をしていた母ちゃんとどこかに出かけるらしい姉ちゃんが揃ってバケモンを見たような声で「ちょっと!赤也が早起きなんて……どうしたの!」なんて言ってきやがった。うるせーな、そういう日くらいあるっつーの!と思いながら顔を洗って、シューズを履いて「ちょっと走って来る」と言って玄関を飛び出した。

軽くロードワークを終わらせて家に戻ると、朝飯の用意が終わっていたのでシャワーを浴びて、珍しく家族揃ってメシを食った。
それから出かける支度をしても時間には余裕がありすぎるくらいだった。だが、何か――ゲーム――をし始めるには微妙な時間。かと言って何もしないでいるにはあまりにも長い時間だ。
何だか妙に落ち着かない。初デートでもないのにソワソワしている自分がちゃんちゃらおかしくて仕方ない。さっきから広くもない家をうろうろしすぎて「アンタ、何か変な物でも食べたの?」と姉ちゃんに聞かれたくらいだ。
だぁー!くっそ!こうなったらタチバナさんより先に着いて驚かせてやろうじゃねーか!
机の上に置きっぱなしになっていたスマホとカバンの中に入ったままだった財布とカギをズボンのポケットに突っ込んで、走るようにして家を出た。
あんな20字足らずの彼女からのメッセージ1つに、いとも簡単に踊らされているなんて4年前の自分が聞いたら、バカな奴だと鼻で笑うだろうなと、渋谷へ向かう電車の中で考えて思わず苦笑いがこぼれた。

待ち合わせ場所に着いて、スマホを見ると11時40分。まだ20分前で辺りにそれらしき人もいない。仕方なく手近な柱にもたれかかり、彼女を待つことにした。驚かせることが目的なのだから、もちろん連絡など入れない。
休日の昼前ということもあり、目の前を行き交う人は多い。ガヤガヤとした耳障りな音を聞きながら、適当にソシャゲアプリを立ち上げ、暇つぶしをしていると俺の目の前に誰かが立った。
顔を上げて見れば、いかにもパリピっぽい、姉ちゃんと歳の近そうなオネエサン2人がいた。

「あのぉ……ちょっと道聞きたいんですけど〜。ちょっといいですかぁ?」

こういうのなんて言うんだっけなぁ……。あ、"猫なで声"ってやつ?
明らかに道を聞きたい感じじゃなくて俺はイラッとした表情と舌打ちを隠さなかったが、オネエサン達は怯む様子もなく「ココなんですけどぉ、」とスマホをこちらに押し付けるように向けてきた。俺はそれをちらりとだけ見て「あー……」と探すフリをしながらどうやってこの状況を切り抜けようか辺りを見回した――その時だった。目線の先に、少女趣味なハートのヘアピンを付けた見覚えのある顔を見つけた。
見覚えのある顔なのに、見たこともない表情に心臓がひやりとした。喜怒哀楽のはっきりしているタチバナさんの怒ってる顔だって泣いてる顔だって散々見てきたはずなのに……あんな顔は見たことがねぇ……。
たった一瞬、偶然見えただけの、その表情が頭から離れなくて、俺は内心で舌打ちしてから「スンマセン、俺急いでるんで!」と道を塞いでいたオネエサン達を振り切って歩き出した。

人の波間をかき分けて、テニスをしてるとは思えないほど華奢な腕を引いた。

「……っ、タチバナさん!」
「、え?……切原くん?!」

なに、どうしたの?と驚きに大きな目を瞬かせてこちらを覗き込む彼女に俺は小さくホッと息を吐いた。……いつものタチバナさん、だ。

「へへ、ビックリした?」
「そりゃ、急に腕引かれたら誰でも驚くわよ!……ていうか、遅刻せずに来れるんじゃない!」

驚いたり怒ったり、相変わらず忙しいタチバナさんの小言をいつも通り聞き流しながら「で、今日はどこ行くんだよ?」と彼女の手を握った。


策士策に溺れる

'20/03