「つばさ、いるか?」

誰しもが寝静まっている深夜二時過ぎ。唐突に部屋のドアを叩く音と聞き慣れた声が耳に届く。周りへの配慮だろう、普段より幾分か落とされたトーンは睡魔に襲われた脳に伝わるまでに時間を要した。……まぁ、考えるまでもない。こんな傍迷惑な時間に部屋を訪れる奴なんて片手で足りるくらいなのだから。

「…… 鍵開いてっぞ」

俺がそう返答すると先程と同じような少々遠慮がちな声色で「んー。お邪魔しまーす」と言いながら、彼女はドアを開けて部屋へと入ってくる。その顔つきが何だかいつもと違うように見えて少し落ち着かなくなる。それでも平静を装って「どうした?」と問う。理由なく気軽に部屋を訪れるにしては時間とその顔つきが気になる。

「……や、大した用があった訳じゃないんだけど、」

少し間を置いてから美咲は口を開き、言葉を選ぶかのようにぎこちなく台詞を切る。

「ん?」

気になって先を促せば、彼女はベッドに腰掛けて部屋に来た理由をぼそっと呟くように口にする。

「ちょっと部屋にいたくなかったから」
「喧嘩でもしたか?」
「お前と一緒にすんな、ばーか!」

冗談半分でそう投げかければ、案の定いつも通りの怒声と鉄拳が飛んでくる。毎度のことながら相変わらず容赦というものがない。声は近隣への配慮から普段より小さめだったのに対し、鉄拳の威力はいつもの倍だ。……ったく、これじゃ体いくつあっても足らねぇって。

「はいはい。……つーか、それなら俺じゃなくてユーリとかでよかったんじゃねぇの?」

行き来禁止の男子寮にわざわざ危険を犯して来るよりそっちの方がよっぽど楽だと俺は思うけどなぁ、と小さく零す。それを聞いた美咲は口角を少しだけ上げ、意味深な顔で「だって何か悪いじゃん」と俺に向かって言葉を投げてくる。

「俺だったらいいのか!」
「今更だろ? あたしと翼の仲じゃん!」

彼女の恐ろしく理不尽な言い分に言い返す気力もなくなる程呆れた自分がいて「……そーですね。あー、もう好きにしろ」と投げやりに答えた。

「ありがとう」

俺の言葉に彼女は普段あまり見せることのないやわらかい笑みでそう返してくれる。あー、うん。やっぱり美咲のこの顔に弱いな、俺。
今のこいつに何を言ったって無駄だということは幼馴染故に嫌というほど経験している。だからそれ以上追及はせず、目の前のことを片づけることに集中することにした。それから数十分が経過した頃、我が物顔で俺のベッドを占領していた美咲が目線をこちらに向けて声をかけてくる。

「……なぁ、翼」
「んー?」

俺は目の前に広がったノートから目を離さずに返答する。そうすれば「ひまぁー」と気の抜けた彼女の声が耳に届く。

「いや、暇って言われても……」

俺は手を止めて、美咲の方を向いた。ベッドの上でごろごろといかにも暇そうな彼女。第一、理由の説明もうやむやにしたまま勝手に部屋を訪ねてきたのは他の誰でもなく美咲だ。全くこういうところ昔から変わらない。

「ゲームとかない……あれ、何やってんの?」

暇つぶしを探しにベッドから立ち上がった彼女は机に向かっている俺に気付いたのか言葉をかけてくる。

「あー、数学の課題」

問題集を手に取り、彼女の前に出せば「……そんなのあったな、そういえば」と呑気な答えが上から降ってくる。薄いある程度の期待を込めて「終わったか?」と問いかけると、滅多に見せることのない極上スマイルの彼女。

「いいや、まったく」
「おいおい、明日提出だぞ、これ」
「明日ってゆーか、今日ね。まぁ、どうにかなるっしょ」

相変わらず楽観的というか何というか、焦りを感じている俺とは真反対。これで本当にどうにかするんだからこの女は侮れないんだよな。
握っていたシャーペンを机に置き、項垂れるように机に伏せる。それから盛大な溜息を付いた。

「……はぁ、美咲が終わってるんだったら写そうと思ってたのによ」

俺の期待を返せ、なんて思いながら目線だけを上げて恨めしく言葉を続ければ、にやりと笑う美咲と目が合う。そして肩をポンと叩いて「甘いな、翼」と口にした。その言葉に俺はガバッと上体を起こし、頭をガシガシと掻く。

「だぁー!メガネも美咲も役に立たねぇー」
「あ? 聞き捨てならないなぁ、今の」
「あ―――っ!!!ギブ!ギブっ! ちょっ、マジ食い込んでるって!」

笑いながら言う彼女の目が笑っていない、本気で笑ってないと思ったのも束の間、顔面を掴まれてお決まりのアイアンクローを見舞われる。……こいつ本当は"手加減"って言葉を知らないんじゃないかとさえ疑いを持ちたくなる――それくらい彼女の攻撃は痛いのだ。
ある程度満足したのか、俺から手を離した美咲はにこやかな表情を浮かべて俺に言い放つ。

「翼くん、頑張って!あたしの為に」
「はぁー?」
「なに文句あんの?」
「いや、文句っつーか……。理不尽じゃね?」
「聞こえなーい」
「……お前なぁ、」

俺の抗議を受け付けない、とでも言うように耳を塞ぐ仕草をする美咲に呆れ半分、溜息混じりの声が零れる。それに反して彼女はといえば、しれっと「いいじゃん、これくらい。罰は当たらないって!」と返してくる。

「そういう問題か?」
「細かいことは気にしない!……あ、」
「ん?」

机の横にある本棚に何かを見つけたのか、美咲はその前に屈む。彼女が手にした懐かしい本。

「これまだあったんだ」
「……あぁ、それか。懐かしいだろー。この前片付けたら偶然出て来たんだよ」
「懐かしいなぁー。昔はよく二人でこれ、読んでたよね」
「消灯時間過ぎてからタカハシさんが来ないのを見計らって、どっちかの部屋に行ってはよく読んでたもんなぁ」

懐かしそう目を細めながらページをめくる彼女。そんな姿が妙に愛おしく感じる。

「すぐおねむになる翼くんは全部読み終える前に寝ちゃってたよねー」
「それはお前もだろ?美咲ちゃん」
「バカ、翼よりあたしの方がちゃんと読んでたし!」
「はいはい。あー、でもこれ完全に読み終えるまで確か……一週間くらいかかったよな」
「そういえば……。その一週間の間に本の取り合いで大喧嘩して、本の表紙破ったんだっけ」

開いていた本を閉じて、表紙をまじまじと見ていると美咲が「あ、ここがそうじゃん!」と言って大きく表紙が破けている所を指差した。

「ほんとだ。……しっかし、ひっでぇー破れ方してんのな!」

彼女が指差した箇所を見ると今にも真っ二つになりそうなまでに破けた表紙カバーがあった。その見事な破れっぷりに思わず笑いが込み上げてくる。

「どっかの誰かが思いっきり引っ張るからだろ」
「俺の所為なのかよ?!つーか、お前だって人のこと言えねぇくらい引っ張ってただろ!」
「あれ、そうだっけ?」
「都合が悪くなるとすぐ惚けやがって……。大体お前昔っから馬鹿力だよなぁ。少しは女の自覚持っ、!?……ってぇーな、何すんだよ、美咲!」

話の途中で床置いてあったクッションが顔面めがけて飛んでくる。突然の攻撃を避けきれなかった俺はクッションをまともに食らう。投げた張本人に文句を言えば、つかつかと目の前まで来て両頬を摘まれ、左右に思いっきり引っ張られる。

「余計なこと言ったのはこの口か?あ?」
「いっ!あだだだだ」
「自業自得だ」

そう言って彼女は俺から手を離す。引っ張られた頬が痛い。多分赤くなっているだろうそこを擦る。

「……いや、だから、なんかこう違うんじゃね?」
「ん?何か言ったー?」
「いえ……なんもないです」
「今思えば昔はしょっちゅうお互いの部屋行き来してたなぁー」
「今もあんま変わんなくね?」
「何でだよ」

俺の言葉に不服そうな声が返ってくる。

「美咲今でもしょっちゅう俺の部屋来るだろ」
「翼の部屋って居心地いいんだもん」
「……あのなぁ、」

本当に美咲はしれっとした顔でこういうことを言ってのけるから厄介なんだよなぁ。それをまた受容してしまう俺も俺だけど。……惚れた弱みって奴?

「まんざらでもないんでしょ?」
「はぁ?!」

ある意味核心を突かれて、目を見張るしかなかった。
すると、美咲は「だって無理に追い返さないじゃん、翼」と言葉を続ける。

「なに追い返して欲しいわけ?」
「……別にそういうわけじゃないけど、」
「満更じゃないのはお前の方だろ、美咲」
「……、っ!」
「そろそろ来た理由話してもいいんじゃねぇの?」
「うっ……」

椅子から立ち上がってベッドへ移動し、腰を掛けて美咲を手招きする。おずおずとやってくる彼女は俺の隣に同じように腰掛けるが一向に話そうとしない。

「美咲」

そう声をかければ難しい顔で何やら口をもごもご動かして、言葉を紡いだ。

「……笑うなよ?」
「あぁ」
「うたた寝してたら夢見たんだよ」
「夢?」
「この学園に来た時の、ね」
「……」
「目が覚めたら、涙出ててさ。そしたら急に一人が怖くなって……」
「それで来たってわけか」

それなら部屋に来た時の妙な違和感にも合点がいく。……ったく、早く言ってくれればいいものを。まぁ美咲の性格考えたら、これでもマシな方か。

「……うん。自分でも馬鹿じゃないかって思ったんだけどさ、どうしても止められなくて。ごめん、翼」
「別に気にしてねぇよ。……それより、」

言葉を途中で切って、隣にいた美咲を腕の中に引き寄せた。突然のことに彼女の体が大きくはねる。その反応が可愛らしくて口元が自然と緩む。

「?!」
「そこまで驚かれるとちょっと傷つくんだけど」
「だ、だって……」

わざと悲しそうな顔をすればいじらいしい表情を浮かべて俯く彼女。それがどれだけ愛おしいか。

「なぁ、美咲」
「……なんだよ」
「俺さ、お前がいてくれてよかったって思ってるんだ」
「はぁ!?いきなり何言い出すんだよ!」
「美咲がいるから俺の存在価値が見出せるってゆーか。……あー、うまく言えないけど! 美咲がいてくれて助かった」

学園に来た時、要のあの事件も……隣に美咲がいなかったら今の俺はなかったはずだ。だから美咲には本当に感謝してる。

「それ言ったらあたしだってそうだよ。翼じゃなきゃこんな時間に来ないし」
「……」
「でも翼はずるい!」
「なんだよ、いきなり!」
「ずるいったらずるいんだよ!」
「はぁ?意味わかんねぇー!」

駄々っ子みたいな表情を浮かべ、俺の腕の中から手を伸ばし、俺の髪をぐしゃぐしゃにする美咲。それに抵抗しようとした反動で後ろのベッドにダイブ。いたずらっ子のような声のトーンと笑みで美咲が囁く。

「……翼、ありがとね」
Beautiful world

'10/08
学園アリスアンソロジー「FLOWER」寄稿