今年のバレンタインはちょうど土曜日で授業も補習もないので例年の戦争は少しだが落ち着いていた。が、この日だけは外に出るだけでも億劫なので俺は一日中部屋の中で過ごした。(親友の要の見舞いにはメガネと美咲と行ったけど)
バレンタインと言えば俺にとって数年来いい思い出がない。媚薬入りチョコレートを何の疑いもなく食べ、気が付けば美咲は口をきいてくれなくて。それから毎年のようにもらっていた義理チョコさえもくれなくなった。中等部の後半から付き合い始めて今に至るまでもまだ根に持っているのかチョコレート一つ彼女から貰ったことはない。もちろん悪いのは俺(……本当にそうなのか?)だから催促もしない。――長い片思いの末にやっと付き合えるようになったんだ、そろそろ本命チョコをくれたっていいんじゃないかと頭の片隅では思うのだが。
結局今年も美咲からチョコはもらえず、夜が更けていくのを何をするわけでもなくただベッドの上で感じている午前0時手前。
そんなことを考えていると不意に部屋の扉を叩く音がした。ベッドから降り部屋を歩きながら「こんな時間に誰だよ……」と少しぼやいて俺は扉を開ける。すると扉の前に殿が立っていた。

「よっ、翼!」
「ちょっ、何でこんな時間におっさんがいんだよ?!」
「おいおい。久しぶりにやって来た先輩に向かって“おっさん”はないだろ」
「久しぶりって……この前忘年会で会っただろ。つーか、何の用だよ?」

こんな時間に部屋と廊下の間で話すのは他人の迷惑なので相変わらずニヤニヤした目つきをした非常識な殿を部屋に入れて俺は問う。

「まぁ、用っていう用はねぇんだ。仕事の報告ついでに寄っただけだし」
「おい、それだけのことでこの非常識な時間に寮来たのか?ふざけんなよ」
「そんな怒んなって。お前にこれやろうと思ってな。……俺のお気に入りのチョコレート」
「……は?」

殿はそう言って俺に小さな長方形の箱を投げて寄越した。おまけに「どうせ今年も美咲からもらってないんだろ。優しい優しい殿内先輩からの差し入れなんだからありがたく食えよ」なんて一言を付けて。

「男からチョコもらっても嬉しくねぇー」
「はいはい。来年は美咲からもらえるといいな」
「殿うぜぇ。もう用がねぇならさっさと帰れ」
「わぁってるよ。じゃ、特力の奴らによろしくな」
「……あぁ」

殿がそう言いドアノブに手を掛けようとした時、急に扉が開く。

「翼、まだ起きてるー?」
「、ってぇ。……美咲?!」
「え、殿?!何でいんの?」
「いやいや、それ俺の台詞ね。ここどこだかわかってる?」

扉が開いた時にぶつけた額をさすりながら殿は突然の訪問者である美咲に問いかける。

「高等部男子寮でしょ?」
「聞いた俺が間違ってたわ。……お兄さんは邪魔だろうから退散するわ。じゃあな、二人とも」

変な言葉と共に殿はひらひらと手を振りながら部屋を出て行く。そんなおっさんを不思議そうな顔で美咲は見ていたがすぐに扉を閉め、部屋に入ってきた。

「殿の奴何しに来てたの?」
「仕事帰りにチョコ渡しに来たんだと」

ほらよ、と俺は手に持っていた箱を美咲に渡す。箱を受け取ると彼女は怪訝そうな顔で「あのおっさんそういう趣味まで持ち始めたのか……」と呟く。俺は苦笑いをしながら「考えたくもないな」と答える。

「……ま、折角だし食べるか?」
「うん。翼、紅茶よろしく」
「はいはい。ちょっと待ってろよ」

俺は部屋の隅にある棚からマグカップを2つとティーバッグを取り、いつも通り美咲に少し甘めのミルクティーを入れ自分にはコーヒーメーカーに残っていたコーヒーをブラックで入れ、彼女がいるベッド際のテーブルへと向かう。が、目の前に飛び込んできた光景に俺は足を止める。さっきまで普通にしていた美咲がへらへらと笑いながら殿がくれたチョコレートを食べていた。顔をよく見れば頬がほんのり赤く色づいている。俺は訳がわからず持っていたマグカップをテーブルに置き彼女に近付く。ゴトンというマグカップとテーブルがぶつかる音で俺が来たことに気付いた美咲はへらへらした顔で「あ、翼だぁ〜」なんて言って抱きついて来た。俺は彼女を抱いたままベッドに腰掛ける。普段こういうことを俺がしようとしても恥ずかしがり抵抗する彼女が自分に抱きついて来るのは珍しいことで嬉しく思う反面、不思議に思っているとふとアルコール独特の匂いが鼻を掠める。 その匂いに嫌な予感がしてテーブルの上に散らばるチョコレートの銀紙に手を伸ばせば『ブランデーボンボン』の名前が目に入り、俺は思わず溜息を零す。
そう、美咲はアルコールに弱い。
この前――年末の大掃除の日、卒業生である殿が仕事のついでに特力に顔出しに来て、奢ってやるから忘年会しよう、だなんて言うので特力の高等部生だけで奴の忘年会と云う名の飲み会に参加したことがあった。(中等部生以下はさすがに連れていけなかった) 俺やメガネ達は昔から殿に付き合わされて飲みに行ってたのでそれなりにアルコールに強かったからその日も殿が頼んだ酎ハイを飲んでいた。しかしいつの間にか俺の手元にそのグラスはなく、気が付けば美咲が間違えて酎ハイを口にしているのが目に入った。普段アルコールを摂取する機会などない彼女は一口でダウンした。その後のことは今思い出しても眩暈がする。――美咲はアルコールに弱く、酔うと何しでかすかわからない。
そんなことを考えている間も膝の上の美咲は猫のように胸にすり寄って来る。彼女の頭を撫でながら「チョコうまかったか?」と聞いてみる。

「うん、おいしかった〜。おとなな味だったよ」
「そっか」
「つばさも食べればぁ?」
「……あぁ」

美咲に勧められて俺はテーブルに置かれた箱に手を伸ばしてチョコレートを取り銀紙を剥がし口に運ぼうとした。――が、その手は彼女によって阻まれてしまい俺は驚いて彼女を見つめた。

「……美咲?」
「せっかくだし食べさせてあげる」
「へ?」

彼女は俺の手にあったチョコレートを口に含みそのまま顔を近付けて来て驚いたままの俺に口付けた。薄く開いた唇からチョコレートと美咲の舌が割って入って来る。それに応えるように舌を出し絡めればお互いの熱でチョコが溶け出しブランデーが溢れ、口の中に独特の味広がる。しばらくすればチョコは溶けてなくなり口内にはブランデーが残る。それを喉へ流し込めば美咲は満足したように唇を離し、何とも言えない色っぽい表情で「ね、おいしいでしょ?」なんて言ってくる。
いつもと逆の立場でこれほどに積極的な美咲は滅多に見れるものじゃなくて心臓が高鳴って落ち着かない。そんな俺に対して美咲は紅茶を啜りながらまたチョコレートを食べようと手を伸ばすので俺はその手を遮るように握る。

「つばさ?」
「お前もう食うな」
「えー、なんでー?」
「何ででも。これ以上酔われたら俺が困る」
「わたし酔ってないよ〜?」
「いやいや、充分酔ってるでしょ」

酔っ払い定番の台詞を口にする彼女に溜息を一つ零す。俺の一言に不満があるのか頬を膨らませるもんだから本当に酔った美咲は質が悪い。

「つばさ、チョコ!」
「だめだ。二日酔いになるぞ」
「ならないから、チョコ!」
「それでもだめ」

何だ、この駄々っ子は。
普段俺をガキ扱いする美咲だが、この状況じゃどっちがガキだかわかったもんじゃない。大体この前酎ハイ一口で二日酔いになった奴がブランデーボンボンを3つも食べて二日酔いにならないわけがないだろ。

「つばさぁ……チョコ食べちゃだめなの?」
「絶対だめ。……元々これは俺がもらった奴だし」
「……じゃぁ、もういい」

美咲はそう言って俺の首に腕を回しそのまま口付けて来た。深く深く、二度目のキスもチョコレートとブランデーで甘く、苦く。彼女に応えるかのように舌を絡めればチョコレートより甘いくぐもった声と互いの唾液が混じる音が静まり返った真夜中の部屋に響く。
それから何度口付けを交わしただろうか。
アルコールじゃなくキスに――美咲に酔いしれるほどに。その気にならずに終われたのはいつの間にか美咲が俺の腕の中で眠っていたから。少し惜しい気もしたが、チョコレートを持ってきてくれた殿と突然やって来てくれた美咲に感謝だ。腕の中ですやすや眠る美咲を自分のベッドに寝かせ額に唇を寄せ、「おやすみ、美咲」と呟く。



すっかり冷めてしまったコーヒーがいつもより甘く感じたとあるバレンタインデー。
色ホリック

'09/02