『映画、見に行かんか?』

その誘い文句に私は目を瞠った。
釣った魚には餌をやらないと云わんばかりの見た目をしているくせに、仁王は意外なほど頻繁に連絡を寄越してくる。だから通知欄をろくに確認もせず、会話画面を開いたのがいけなかったのかもしれない。目に飛び込んできたその一文に危うくスマートフォンを落としそうになった。
続けざまに『姉貴から無料券二枚もらったんじゃが、土曜日空いちょる?』と、テンプレートそのままのような文章が送られてきて思わず笑ってしまった。だって、あの仁王が、かつて〈コート上の詐欺師〉と呼ばれていたあの男が、こんなベタな誘い方をするなんて!
下がりきらない口角のまま、私は「土曜日、特に予定ないから一緒に映画行こう!」と返信した。


土曜日の午後二時。
夜型人間の仁王と待ち合わすのは大抵このくらいの時間で、のんびりだ。
週末の映画館は意外と人で溢れていて、きょろきょろと辺りを見回す。人一倍、目を引くその特徴的な銀色のしっぽを見つけて、ほっと胸を撫でおろした。珍しく時間通りにいる仁王は、柱に寄りかかってスマートフォンをいじっているようだった。それを遠巻きに、ちらちらと窺い眺める女の子達の多さにイケメンというのは罪深いなぁ、なんて心中でひっそりと感じた。

「仁王。お待たせ」
「俺も来たとこじゃき、気にしなさんな」

スマートフォンから視線を上げた彼は、ふっと口角を上げてバレバレの嘘をつく。それが何だかおかしくて、愛おしかった。あの仁王が、こんな簡単な嘘を重ねるなんて、誰が想像しただろうか。
「ん、」と差し出されたチケットを仁王から受け取って、定番のポップコーンやジュースを買ってから劇場内へと足を運んだ。真ん中ブロックの右側の2席――通路側に仁王が座り、その左横に私が座った。
仁王が選んだのは、猫を題材にしたハートフルストーリーだった。
そういえば、彼と待ち合わせると大抵その場におらず、少し離れた公園で野良猫と昼寝をしているか、戯れているかのどちらかが常だったな、と思い当たって、くすりと笑いが零れ落ちた。すぐ隣にいる仁王にも聞こえていたようで怪訝そうな声が少し上から降ってくる。

「……なんじゃ」
「ううん、何でもない。それより、これ観たかったんだ。ありがとう」
「ほう。それはよかったぜよ」

仁王は口は上手いが、決して口数の多い方ではない。映画が始まるまでの数分間、私達はお互いに無言だった。けれど、その沈黙は決して不快なものではなかったし、むしろ心地よくて自然と口角が上がった。

しばらくすると、辺りが暗くなって上映が始まる。
時折、二人の間に置かれたポップコーンに伸ばす手が触れた。その度にびくりと指先を震わせる――今どき中学生だって、そんなベタな反応はしないのに――仁王がやはりおかしくて、愛おしくて堪らなかった。
物語も佳境に差しかかり、ぐすぐすという音があちらこちらから聞こえ始めた。かく言う私の涙腺もゆるゆると潤み、今にも決壊しそうだった。すん、と鼻を鳴らしたのと隣で仁王が微かに動いたのは、ほぼ同時だった。人を食ったような態度が常の仁王がどんな顔でこの映画を観ているのか――そんな好奇心だけが私を突き動かして、ちらりと右隣りの彼を盗み見た。それがいかなった。
仁王の頬を伝う一筋の滴――暗がりに浮かび上がるそれが、あまりにも綺麗で、私は目を奪われたまま動けなかった。
こちらの視線に気づいたのか、慌てて涙を拭って平静を装おうとしている仁王はとても新鮮だった。今日は新たな発見ばかりだな、と思いながら視線を大画面に戻した。



場内が少しずつ明るくなっていくのに合わせて息を吐く。映画の余韻を味わいながら、縮こまっていた体をぐっと伸ばしてからまた椅子に背中を預けた。

「……いい話だったね」

そう隣を見やれば、さっきの顔はどこへやら……もういつも通りの飄々とした表情をした仁王が一言「そうじゃな」と返すだけだった。

「さて。この後、どうするかのう」

そう言って立ち上がった仁王は、まるでそうするのが当たり前というように、きゅっと私の手を握った。
ベタなことばかり繰り返していたから、上映中にでも握ってくるものだと思っていたのに。……やられた。
あまりにも自然に触れられた手に、肩がびくりと大袈裟に跳ねて、心臓がバクバクと音を立てて今にも飛び出しそうだ。

「……?」

俯いたまま動かない私を怪しんだ仁王の声が名前を呼んだが、顔を上げることはできなかった。だってたぶん、いや絶対、悔しいくらい真っ赤な顔をしているはずだから。
ふるふると首をだけを振って意思表示をすれば、ふっと仁王が笑ったような音がした。

「かかったぜよ」

少しだけ甘ったるさを含んだその台詞に、やられたと唇を噛んだ。
ぐっと手を引かれて立たされると仁王は映画館を抜けてく。
妙に上機嫌の仁王が「どっか行きたいとこは?」と聞いてきた。その浮かれた声色にムッとして、少し拗ねたような口調で「夜景の見えるレストランでご飯食べたい」とだけ言って私は、火照ったままの顔を隠すように掌で覆った。


そのあと電車に乗り、望み通り夜景の見えるレストランに連れて行ってもらったというのに私は終始眉を顰めて、口をへの字に曲げたままだった。

、……そろそろ機嫌直してくれんか」

目の前に座る仁王が困ったように笑う。そんな表情だって様になってしまうんだから、まったく厭味以外のなにものでもない。
私はますます不貞腐れて子供っぽくいじけた。

「だって、私がああいう反応するってわかってやったんでしょ。……ずるいじゃん、そんなの」

用意周到に張り巡らされた罠に気付きもしないでわかりやすい嘘を重ねる仁王を見てほくそ笑んでいた数時間前の自分がひどく恨めしい。
そんな私の耳に、はぁという溜息の音が聞こえて、思わず体が強張った。

「頼むから、あんまり可愛いことばっか言わんちょって」
「え……?」
「そうやって可愛いことばっかりされると、どういう顔していいかわからんぜよ」

まいった、といった口調の仁王は私から見ても真っ赤な顔をしていた。私の視線に気づいてそれから逃げるように片手で顔を覆う仁王の反応の方が、意地っ張りを重ねて拗ねている私なんかよりよっぽど可愛いというのに。……多分、いじけるから言わないでおくけど。まったく、この男の琴線がよくわからない。
返す言葉が見つけられず、不自然な間が生まれた。
なんだか居た堪れなくて視線を窓の方へずらせば、都会の空を埋め尽くすようにネオンが眩しいほどに煌めいていた。

「……あれは、まぁ、なんていうか。……俺ばっかり好いちょるみたいで悔しくてのう。意趣返しってやつじゃ」

沈黙を破ったのは意外にも仁王の方で、熱の引き切らない顔で困ったようにはにかんだ。別にそんな顔をさせたかったわけではなくて、ちくりと罪悪感が棘のように胸を刺した。
思い返せば、告白も仁王の方からだったし、今日のようにデートに誘うのも仁王の方が多かったかもしれない。……私から仁王に好きって言ったことあったかな?

「まぁ、俺もあんな可愛い反応されると思っとらんかったし、おあいこじゃな」

ずっと黙ったままの私に仁王はさらに言葉を続けた。その照れたように笑う顔がとても綺麗だと思った。

「……仁王は、それでいいの?」
「いいも何ものあの反応が〈答え〉じゃろ。別に気にしとらん」

仁王はそれだけ言うとテーブルの隅にあったメニューを掴んで「さて。デザートは何を食べるかのう」と、何でもないように呟いた。
彼のその優しさに今は甘えることにして私もメニューを覗き込む。

「私、ティラミスがいい。……あー。でもカタラーナも美味しそう……」
「両方頼んで、はんぶんこしたらよか」
「……、うん」

どうやら私の彼氏は、かっこよくてかわいくて、ずるい優しさをもった男だったようだ。
恋する二人の加減乗除

'18/12/04