ひんやりとした冬の朝、ふわりと柑橘の匂いが香った。――柚子、だ。
冷えた空気いっぱいに広がるその匂いは、幼馴染である若の家のゆず湯を思い出させる。
彼の家は古武術道場を営んでいるが故なのか、四季折々の行事や習慣をとても大切にしていた。特別なものは使っていないと言っていたように思うが、日吉家のゆず湯に浸かるのが幼い頃から好きだった。

「……おい、
「あ、若。おはよう」
「ああ。おはよう」

そんなことを考えながら通学路を歩いていると、相変わらず目つきの悪い幼馴染が後ろから声をかけてきた。寒さに弱い彼は、きっちりコートを着込んでその首元にぐるりとマフラーを巻いて、口元をそこに埋めている。肩にはラケットバッグがかかっていた。

「なぁ、お前、今年はどうするんだ」
「え、何が?」

隣を歩く若の、目的語のない言葉に私は何のことだ、と首を傾げて、斜め上を見た。目つきの悪いつり目が少しだけ優しく細められたかと思えば、「今日、冬至だろ。お前毎年来てるけど、一応確認しとこうと思ってな」とマフラーでくぐもった声が降ってきた。

「そっか、今日か。だから柚子の匂いがしたんだ」
「いつもなら前もって確認してたんだが……悪い、今年はすっかり忘れてた」
「あの跡部先輩から部長を引き継ぐんだもん、忙しいのも仕方ないよ」

3年生が正式に引退した後の氷帝学園中テニス部はそれでも膨大な部員が存在する。その頂点に新たに君臨し、それでもなお下克上を狙う若の忙しさは今までの比でないことくら外野である私にだってわかる。その意を込めて笑えば、嫌そうに眉を顰めた若がこちらをギロリと睨んできた。……その顔、別に怖くないもん。

「……で、どうするんだ。来るのか?来ないのか?」
「行くけど、若、今日部活でしょ?」
「ああ。……別に今さら遠慮する間柄でもないだろ、俺がいなくても適当に来たらいい」
「……うん、」

どこか納得しきれていない私を余所に若は「俺は朝練行くぞ」と言ってスタスタと歩いて行ってしまった。
寒がりなのに、その背中はシャンと伸びていて美しかった――。


土曜日は午前中で授業が終わる。残すところ2学期も週明けの終業式だけということもあり、放課後の校内はやたらと元気な声であふれ返っていた。
クリスマス前というのもあってか、どこか浮足立っている感じの友人達の誘いで私は駅前にあるカフェでお昼を食べてから帰宅した。部屋の時計を見やれば、16時半を示している。どうやら何だかんだで長いこと話し込んでいたらしい。毎日顔を合わせているメンバーだというのにまったくおかしな話だ、と苦笑が零れる。
でもまぁ、今から支度をして若の家に向かえば、彼の帰宅と同じくらいになるだろうと、私は制服を脱いで私服に着替え、彼の家に向かう準備を始めた。


例年通り1泊分の着替えが入ったカバンを持って行き慣れた幼馴染の家を訪れると、おばさんが迎えてくれた。

「あら、いらっしゃい。久しぶりね」
「こんにちはー!今年もお世話になります」

玄関口で迎えてくれた彼女に、ぺこりとお辞儀をして挨拶をすれば「いいのよー!むしろ、今年は当日のお誘いになっちゃってごめんないさいね」と笑いながらも恐縮されてしまう。

「若、部長になって忙しかったし、それは全然!今年も日吉家のゆず湯にお呼ばれされて嬉しいですよ、私」
「それならいいんだけど。……あら、」

頬に手を添えながら眉を下げて笑ったおばさんが私の頭の向こうを見て声を上げた。その声に後ろを振り返れば、朝、通学路で会ったときと同じようにコートの合わせをきっちり首元まで留め、顔の半分をマフラーに埋めている若が立っていた。日が落ちて朝より寒くなっている所為か、眉間にはこれでもかと皺が寄っていて、まるで怒っているようだな、と苦笑いが零れた。

「なんだ、意外と遅かったな」
「あ、うん。……おかえり、若」
「ただいま」

何気なく言ったそれに返された言葉はとてもあたたかな響きをしていて、じわじわと照れくささが込み上げてくる。どうやらそれは私だけではないようで、若もほんのり赤みがかった頬を隠すようにそそくさと靴を脱ごうとしていた。そんな私達を見たおばさんが「あらあら。……あなたたち、まるで付き合いたてのカップルみたいねぇ」なんて笑って言ってのけた。彼女の一言に呆気にとられた私と若が目を丸くして「おばさんっ!」「母さんっ!」と同時に叫ぶ声が日吉家の広い玄関に響いた――。


その後、おばさんのどこか生暖かい眼差しにちょっとだけ居心地の悪さを感じながらも夕飯を食べ、居間で我が家のようにまったりとした時間を過ごしていると、若が「おい。風呂、沸いてるぞ」と声をかけてきた。無言で見上げた先にはさっきまでと同じ眼鏡姿の若。見慣れているはずなのに、この角度から見ることがなかった所為か、まるで知らない人のようで、心臓が小さく音を立てた。

「一番風呂もらっちゃっていいの?」
「お前、一応〈客〉だからな」
「何となくトゲを感じるんだけど、まぁいいや。ありがたくお湯いただくね」
「ああ」

そう言って立ち上がり、客間に置かせてもらっていた荷物の中からお着替えや洗面道具を取り出してから居間の方へ一声かけてからお風呂場へと向かった。
浴室のドアを開ければ、湯けむりと共に柚子独特の香りが広がる。めいっぱい吸い込んで吐き出せば、爽やかな香りで鼻腔が満たされる。この匂いに包まれると、ああ今年もあと少しで終わるんだなと感じるのだった。
好意に甘えて一番風呂で日吉家のゆず湯を堪能した私は、濡れた髪もそのままに若の部屋を訪ねた。

「……わかしー上がったよー?」

軽いノックのあと、扉から顔を覗かせると熱心に読書をする若の姿が見えた。

、お前……、髪ちゃんと乾かせよ」

本から顔を上げた若が溜息と共に呆れた口調で吐き出した。

「わかってるよ。先に呼びに来ただけじゃん」
「風邪引いても俺は知らないからな」

椅子から立ち上がった若が私の前で立ち止まった。その行動に小首を傾げれば、肩にかかったままのバスタオルを奪い取った若が私の頭の上にそれを被せ、数回わしゃわしゃと撫でてたかと思うと何事もなかったように部屋を後にしていった。
彼の部屋の前、私は今しがた彼が触れた頭に手を当てたまま、頬に集まった熱を感じながら立ち尽くすだけだった。
柚子薫る頃は君

'18/12